町山智浩 ファイトクラブ 解説



君のこめかみにぼくは拳銃を押し付けている。
君は死ぬ。銃弾が君の顔を吹き飛ばす。君は学校を辞めてしまって、今はコンビニで働いている。もし、ここで射殺されなかったら何がしたい?子どもの頃は何になりたかった?君は「じゅ、獣医です」と答えた。そうか、動物が好きなのか。それが本当に本当にきみのやりたいことだな?だったら獣医になるために必要な勉強をしろ。死ぬよりマシだろ。ぼくは君の運転免許証を保管している。君の身元を知っている。これからもずっと監視する。もし、君が自分の目的に向かってがむしゃらに努力せず、ただ日銭を稼いで暮らしていたら、殺す。さあ、行け。君の人生を生きろ。死ぬ気でやれば何だってできる。今晩の食事は一生でいちばん美味だろう。明日の朝は一生でいちばん素晴らしいものだろう。
これはチャック·パラニュークの小説『ファイト·クラブ』のある場面の要約だ。1997年のある日、映画監督デヴィッド·フィンチャーにプロデューサーのジュシュア·ドーネンから電話がかかってきた。20世紀FOXが「ファイトクラブ」の映画化権を買って、監督を探しているので、読んでほしいと言うのだ。映画「ゲーム」の編集で徹夜続きのフィンチャーは「本なんか読める状態じゃないよ」と断ったがドーネンは食い下がった。「じゃあ、電話で2ページだけ朗読するから聞いてくれ」それがこの場面だ。フィンチャーはそれを聞いただけで監督を引き受けた。



実存3部作
ヘミングウェイは言った。『この世界は素晴らしい、闘う価値がある』私は同意するよ。後半部分に」
フィンチャー監督の映画『セブン』(95年)は、刑事サマセット(モーガン·フリーマン)のセリフで終わる。堕落した人間たちに絶望したサマセットは隠居を考えていたが、自堕落な人間たちを憎み、次々に処刑する連続殺人鬼ジョン·ドーが現れる。自分の分身のようなドーが多くの人間を道連れに死んだのを見て、サマセットは酷い現実から逃げずに闘い続ける決意をする。
監督デビュー作『エイリアン3』の失敗でハリウッドから干されていたフンチャーは、『セブン』の成功で見事に復活した。それから彼は『ゲーム』(97年)と『ファイト·クラブ』で作家性を確立する
『セブン』から始まるこの3本は、原作も脚本も書いた人間は違っているが、3部作といえるほどテーマが似通っている。それは「このクソったれの世界で、なぜ生きるのか?」。つまり「実存」だ。
『ゲーム』の主人公ニコラス(マイケル·ダグラス)は投資家として成功し、優雅に暮らしているが生きる気力が湧かないまま48歳の誕生日を迎える。父親は同じ歳で自殺した。そこに弟(ショーン·ペン)が訪ねてきて誕生日のプレゼントとしてCRSという団体の「ゲーム」にニコラスを招待する。その日からニコラスは何者かに命を狙われ、追われ、全財産を奪われ、最後には棺桶に入れられてしまう。しかしニコラスは脱出し、死に物狂いでCRSへの逆襲を開始する。実は、そのゲームは人を死の淵に追い込むことで生存本能を呼び覚ますためのものだった。
『セブン』の刑事サマセットも、『ゲーム』のニコラスも、趣味のいい服で端正に装い、整然とした部屋に住み、何不自由ないのに、人生に何の希望も見出せない。しかし、極限の恐怖を通して、生きる意志を蘇らせる。
『ファイト·クラブ』もまったく同じ話だ。ただ、フィンチャーはそのテーマと表現をハリウッド映画で許される極限まで推し進めたのである。



フィア·センター
真っ黒な空間に「FIGHT CLUB」というタイトルが浮かぶ。「そこは脳内の恐怖中枢(フィア·センター)だ」DVDの副音声でフィンチャー監督は解説する。CGで描かれた恐怖中枢で神経電気がスパークする。カメラはそこから猛スピードで後退する。観客はスタッフが「ブレイン·ライド」と名づけた脳内ジェットコースターに乗せられる。アドレナリンが噴出する脳内を走り抜け、頭蓋骨の外側へ飛び出す。出ロは眉間の毛穴だ。カメラはなおも後退し、その男が拳銃を口にくわえているのがわかる。その拳銃が恐怖の原因だったのだ。カメラは拳銃のサイトの上を滑り、照門を抜けたところで停まる。
「ブレイン·ライド」は『ファイト·クラブ』が死の恐怖についての映画であることを宣言している。拳銃をくわえた、怯えた目の男がこの映画の主人公「ぼく」(エドワード·ノートン)だ「ぼく」に拳銃を突きつけた男が言う。「爆発まで3分。ここは爆心地になる」その男、タイラー·ダーデン(ブラッド・ピット)は窓から夜景を眺める。そこはオフィス街にある高層ビルで、周りにも高層ビルが立ち並んでいるのが見える。「ぼくらは大量破壊ショーの最前席にいる。騒乱計画の破壊活動だ」「ぼく」の心の声が聴こえると、カメラはタイラー横を通ってガラス窓をすり抜け、いっきに数十メートル降下して地面のアスファルトに貫通し、そのまま地下の駐車場まで降りていく。「ビルの基礎の支柱に爆薬が巻きつけてある」このシーンには実際に撮影したスチル写真をCGで立体に再構成するフォトグラメトリーという技術が使われている。
「物語の語り手の意識の流れをそのまま映像化したかった」とフィンチャーは言う。タイラーは秒読みする。「あと2分半だ。お前と俺が成し遂げた偉業思い出だしてみろよ」タイラーと「ぼく」は何をしたのか?なぜビルを爆破するのか? 「ぼく」は回想を始める。


ブランド奴隷
「ぼく」は不眠症に悩んでいる。都会の豊かなホワイトカラーだけの病気だ。汗と油と泥まみれで働いて食うのがやっとな労働者が不眠に悩むだろうか?「ぼく」は30歳独身、大手ARI車メーカーに勤めるサラリーマン。いろんな治療を試したが眠れない。なぜ、眠れないのか。「ぼく」は高級マンションに暮らしている。「他のみんなと同じく、ぼくもIKEAの奴隷だ」
「ぼく」はトイレの便器に座ってエロ本の代わりにIKEAのカタログを読む。「何かユニークな新製品を見ると、買わなきゃ、と思ってしまう」
「ぼく」がマンションの部屋を歩くと、北欧製のモダンなテーブルやランプが次々と現れ、一緒に商品名と値段のタグが浮かび上がる。まるで「ぼく」がIKEAの3 Dカタログの中を歩いているように。実際、人々はカタログや雑誌で見た「見本」を模倣しようと、必死で消費を続けている。
「カタログを読みながら考える。どんなテーブルがぼくという人間を表現してくれるだろう?」このセリフの意味をフィンチャーはこう解説する。
「俺たちは服や車や家具を買うとき、ただ服や車を買うんじゃない。それを選ぶことで他者に対して自分はこういう人間なのだとアピールするんだ」
でも、服や車はおまえ自身じゃない。
「ぼく」は冷蔵庫を開けるが、中には調味料ばかりで食べ物がない、自分では料理しないのだろう。「ぼく」の家には生活を飾る物、必要ない物ばかりで、本当に必要な物がない。
会社に行く。スクリーンいっぱいにスターバックスのコーヒーカップがクロースアップになる。カメラはゴミ箱の中に入る。ファストフードの袋、発泡スチロールの容器、お菓子の箱、どのゴミにもブランドのロゴが入っている。
何もかも企業に所有されている。
「将来、宇宙の天体も企業に所有されるだろう。IBM星、マイクロソフト星雲、スターバックス惑星 …」
生活の何もかもが企業の商品で埋め尽くされ、人はあらかじめ目の前に並べられたカタログから選ぶだけで生きていく。進学も就職も恋愛も結婚も家庭も趣味も、人生のすべてがTVや雑誌が提示するサンプルから選んで模倣するだけ。ロールプレイング·ゲームと同じだから、生きている実感は希薄になる。欠落感を埋めようと、「ぼく」はまた商品を買う。買った瞬間は高揚するが、すぐに欠落感が戻ってくる。だからまた
買う。シャブ中と同じだ。いつも元気な職場の上司を見て「ぼく」は思う。
「きっとスターバックスカフェラッテで浣腸したんだろう」
通常、ハリウッド映画では実在の企業名やロゴが登場することはない。ましてや批判の対象として『ファイト·クラブ』はパンチをためらわない映画だ。

 

死の観光客
「ぼく」は、末期患者の互助集会に参加してみる。ガンなど不治の病で死を迎える患者たちが自分たちの苦しみを分かち合い、励ましあう集会だ。
「ぼく」は健康だが、ガンで睾丸を摘出した患者たちの「それでも男だ」会に出席する。元ボディビルダーのボブ(ミート·ローフ)はステロイド注射のしすぎでガンになり睾丸を失った。ボブは女性ホルモンで巨大化した乳房で「ぼく」を抱きしめる。「ぼく」は母に抱かれた乳飲み子のように号泣した。
これは原作者チャック·パラニューク自身の体験が元になっている。
ラニュークは大学卒業後、トラック会社で整備工として13年間も働き、貧しさから抜け出せないでいた。その鬱屈を癒そうと、パラニュークはエイズ末期患者のホスピスでボランティアを始めた。「末期患者と接すると私の悩みはちっぽけに思えた。自分で立ち上がり、1人で歩ける。末期患者に比べれば王様みたいな気分だ」
だが、死を待つ患者たちのなかで1人健康でいるのには罪悪感があった。人の不幸を見に来た「観光客」だとパラニュークは言う。「そして、この患者の中にニセ者が混じっていたらどうだろう?と想像した」
「ぼく」は死にゆく患者を演じることで自分の生を実感し、その夜、熟睡できた。そして末期患者集会に毎晩通うようになる。「毎晩ぼくは死ぬ。そして蘇る。キリストのように」
リストカットが癖になるように中毒になった。しかし、その快楽も1人の女のせいで台なしになる。
マーラ·シンガーは女のくせに睾丸摘出者の集会に来ていた。「ぼく」と同じ「観光客」だ。マーラを見ると「ぼく」は自分がニセモノだと思し出して醒めてしまう。
また眠れなくなった。
死人のように真っ白な顔に真っ黒なアイメイク、紫の唇、真っ黒な服、リストカットの痕で手首が縞模様になっていそうな女マーラ。扮するヘレナ·ボナム·カーターは『フランケンシュタイン』(94年)で死体から蘇生された 「怪物」の花嫁を演じたほど完璧なGOTH女優。パラニュークは彼女を「『ティファニーで朝食を』のオードリー·ヘプバーンがヤク中になった感じ」と絶賛した。
マーラは自動車がぶんぶん通る道路を立ち止まりもせずに横切る。
「彼女はいつ死んでもいいと思っていた。不幸なのは死なないことだ」


ぼくはベンジャミン

「ぼく」の仕事は「リコール·コーディネイター」、欠陥車をリコールするかどうか決めるのだが、実際は車の欠陥を隠すために被害者や遺族の口を金でふさぐ汚い仕事だ。そのために飛行機でアメリカ中を飛び回る
「飛行機に乗るたびに墜落すればいいと思う。隕石が激突したりして」
その通りになる。機体が引き裂かれ、乗客が空に吸い出されていく!
次の瞬間、飛行機は何事もなく飛び続けている。フィンチャーは主人公の一瞬の夢想をわざわざ莫大な費用をかけたSFXで映像化した。「ぼく」はとうとう本当に死を願うところまで追い詰められた。 「『ぼく』は、『卒業』(67年)のベンジャミンの90年代版だ」エドワード・ノートンは言っている。『卒業』のベンジャミン(ダスティン・ホフマン)は優等生として大学を卒業したが、やりたいことがない。彼には大人の社会が「プラスティック(作り物)」にしか見えない。金持ちの両親もプールつきの自宅も何もかも。 エドワード・ノートンも大富豪の御曹司で優等生だ。祖父はショッピング・モールを最初に設計した都市計画家ジェイムズ・ラウズ。父はカーター大統領の弁護士。ノートンは名門イエール大学に学び、フランス、スペイン、日本語を話すエリートだ。しかし、彼は逸脱したかった。ニューヨークでタクシーの運転手になろうとしたり、レストランでウェイターとして働いたり、大阪に行って低所得者のための家を建てるボランティアに参加した後、ノートンは俳優になった。 いわゆる「公家顔」でなで肩、か細い声のノートンは「ぼく」そのものだとフィンチャーは思った。 『卒業』のベンジャミンは、有閑マダムのロビンソン夫人に誘われて不倫関係になる。邪悪な夫人を通してベンジャミンは清潔ぶった上流階級のダークサイドを体験し、人生を踏み外し、「本当の卒業」に一歩踏み出す。 「ぼく」にとってのロビンソン夫人はタイラー・ダーデンという男だ。

 

タイラー登場
「どうして緊急時に酸素マスクが出てくると思う? 過酸素呼吸でハイになって楽に運命を受け入れるためだ」 「ぼく」の飛行機の席の隣にはいつの間にか、真っ赤なジャケットにアロハシャツ、趣味の悪いサングラスをかけたチンピラ風の男(ブラッド・ピット)が座り、座席に常備された緊急事態用の手引きを「ぼく」に見せる。 「このイラストを見ろよ。飛行機が落ちるってのに、乗客はみんな生贄の牛みたいに幸福そうな顔をしてる」 その男はタイラー・ダーデンと名乗り、「ぼく」と同じアタッシュケースを持っていた。中身は石鹸で、タイラーは石鹸を作って売っていると言う。 「あんた、利口そうだな。利口ってどん な感じだ?」そう言ってタイラーは別の席に去ってしまった。 マンションに帰ると「ぼく」の部屋は木っ端微塵に吹き飛んでいた。ガス漏れによる爆発だ。大事に集めた家具が黒焦げになって路上に散乱していた。 行き場所のない「ぼく」はポケットにタイラーの名刺を見つけて電話する。 「ぼく」は「ルウの酒場」というバーでタイラーとビールを飲む。酔って泣き言を言う。あのマンションでぼくはオシャレなアーバン・ライフを完成させつつあったのに......。タイラーは微塵も。 同情せず、「ぼく」に尋ねる。 「デュヴェイってなんだか知ってるか?」
羽毛掛け布団を意味するフランス語だ。 「俺たちはなんでそんな言葉を知ってる? それって人間が生きるために必要な知識か?」
違う。 「俺たちは何者だ?」 「.........消費者......かな? 「その通り! 消費者だ。俺たちはライフ・スタイル商法の副産物だ。殺人や犯罪貧困のニュースに俺たちは関心がない。気になるのは有名人のゴシップ、 500チャンネルもあるテレビ、下着に書いてある誰かの名前だ」
昔は下着にブランドなんてなかった。 「マーサ・スチュワートなんてクソくらえ!」タイラーは「ぼく」に叫ぶ。「高級ソファのこと忘れろ! 物を所有してると、物に所有されるぞ!」 「このタイラーの演説は台本になく、主演の2人と監督、それにシナリオ補佐に雇われた『セブン』の脚本家アンドリュー・ケヴィン・ウォーカーが即興で作ったものだ。そのために38テイクが撮り直された。 「俺はこう言いたい。進化しようぜ」


イタズラ・テロリスト
「ここでタイラー・ダーデンについてもう少し説明しておこう」 「ぼく」は観客に向かって語りかける。 『ファイト・クラブ」は何度も登場人物が ドラマの枠を越えて観客に話しかける。 「タイラーは夜型人間で、皆が眠っている間に働く。1つの仕事は映写技師だ」
映画館には2台の映写機があり、フィルムのリールごとに映写機が交替する。リールが終わりに近づくと画面の隅に白い丸が出る。実際に画面の右上に出た白い丸をタイラーが指差して言う。 業界では「タバコの焦げ跡と呼んでる」 「タイラーがそんな仕事を選んだのは イタズラをするためだ。彼は子ども向けのディズニー・アニメのフィルムにこっそりとコマだけポルノ映画のフィルムをつないで映写する。 ペニスが映るのは1/24秒間なので、観客は自分が何を見たのかはっきり認識しない。でも実際はちゃんと見えている。子どもは怯えて泣き出したりする。 「サブリミナル効果ってやつだよ」 フィンチャーは言う。原作者のパラニュークは高校の頃、オレゴンで映画技師の助手をした経験からこれを書いたが、フィンチャーもやはり高校の頃、オレゴンの映画館で映写技師の手伝いをしていた。「その映写技師は映画のフィルムから好きなコマを勝手に切って大量にコレクションしていたよ」と言う。
タイラーは高級レストランのウェイターとしても働いている。高価なスープにこっそり小便を注いで紳士淑女にお出しするためだ。「タイラーは外食産業のゲリラ・テロリストだ」パラニュークはそこまでやらなかったが、カコフォニー・ソサエティというイタズラ集団に参加していた。100人近くがサンタクロースの扮装で集合し、酒を飲んで乱痴気騒ぎをするというイタズラは「サンタ・ランページ」と呼ばれるイベントとなり、全世界に広がった。


ファイト・クラブにようこそ
「思いきり、俺を殴ってくれないか」 バーを出たタイラーは「ぼく」に頼みこんだ。殴れ? なぜ? 「殴り合いのケンカしたことないからな。お前は?」 ない。運良くね。 「良くない! 殴り合いしたことない奴に自分のことがわかるはずがない。体に傷跡1つないまま死にたくない。俺の堪忍袋の緒が切れる前に殴れ!」 「ぼく」は不承不承タイラーを殴る。幼稚園児のケンカみたいなヘナチョコな殴り方で。 「痛! 耳に当たりやがった!」
大丈夫かい? 「最高だぜ!」タイラーは「ぼく」を殴り返す。そうして殴りあった後、2人は血だらけの、だが満ち足りた顔で「また、やろうな」と微笑みあった。 「殴り合っても日常の問題は何も解決するわけじゃない。だが、すべては些細なことに見えてくるんだ」 「ぼく」は目の周りをパンダみたいにして出勤した。口うるさい上司は何も言わなかった。これもパラニューク自身の体験に基づいている。彼は休暇でキャンプに行って殴り合いの喧嘩に巻き込まれた。会社では、彼の腫れ上がった額に怯えて近寄らなかった。 土曜の夜、2人はまた「ルウの酒場」の裏の駐車場で殴りあった。いつしか見物人に囲まれていた。サラリーマンらしき男が手を挙げて「私にもやらせてくれ」とネクタイをゆるめた。殴り合いの参加者は週を追う毎に増えていった。「今までぼくは嫌なことがあると部屋を掃除して北欧製の家具を磨いていた。それが爆破されたことに怒るべきなのに怒れない。今はただ週末の殴り合いが待ちきれない」
その楽しみにタイラーと「ぼく」は名前を与えた。 「紳士諸君!」酒場の地下に集まった男たちにタイラーは宣言する。「ファイト・クラブにようこそ」


卒業できない男たち
土曜の夜のファイト・クラブで、男たちは血まみれ汁まみれで闘い、幸福に満ちた顔で抱き合う。裸で。ファイト・クラブの掟その5は「シャツと靴は脱いで闘う」だ。グッチの下着の広告を見て「ぼく」は思う。「カルヴァン・クラインやトミー・ヒルフィガーの服が似合うようにジムで体を鍛える奴らが哀れだよ」
そう、オシャレなんて、ショッピングなんてもともと女のやることだ。ファイトクラブで男たちは自分が男であることを思い出す。男たちは消費社会に去勢されちまっているから。 「ぼく」はタイラーの家に同居するようになった。倉庫しかない街外れに建つボロボロの一軒家。水道からは真っ赤な錆色の水しか出ないし、雨が降ると家中、水浸しになる。でも、高級マンションに住んでいた頃より幸福だ。 (誰とでもファイトできるなら誰とやりたい?」と聞かれたタイラーは「親父かな?」と答える。男は父に鍛えられ、 次に立ち向かって乗り越えることで男になる。しかし「ぼく」が6歳の時に父は家を出た。アメリカの離婚率は5割。 つまり2人に1人が父を持たない。離婚しなくても父は仕事仕事で子どもと一緒の時間を持てない。
もし、父親がいても彼らが教えるのは社会の一員になることであって、「男」になることではない。「父親は俺を大学に行かせようとした」タイラーは言う。「言われたとおり大学を出て、次に何をすればいいか尋ねると『職に就け』と言われた。で、働いて、次は何かと尋ねたら『嫁さんをもらえ』と言われた」
「ぼくは結婚できない」と「ぼく」は言う。 「俺たちの世代は母親に育てられた」タイラーは言う。「女では俺たちの欲しいものに答えてくれない」

 

小学校来のセックス
女だ。「ぼく」の人生に欠けているものは、金に困ってない30男がセックスもせずに、男と暮らし、男同士で裸で格闘している。映画批評家たちはゲイではないかと疑った。原作者のパラニュークは後にゲイであることが発覚したが、フィンチャーは違う。「ぼく」が女と関わらないのはもっと普遍的な意味がある。
マーラから電話だ。 「抗鬱剤を飲みすぎちゃった。本気の自殺じゃないわ。助けが欲しいってやつかな」 しかし「ぼく」は非情にも「勝手に死ね」とばかりに受話器を置いてどこかに行ってしまう。その電話をタイラーが取って、マーラの家に来て彼女と一晩中セックスした。
奇怪な体位で絡み合うタイラーとマーラ。それは実はCGで作られた映像だ。ブラッド・ピットとヘレナ・ボナム・ カーターは全身にドットがついたタイツを着て絡み、コンピュータでそれをキャプチャ。テクスチャーには別の女優の裸をマッピングした。 「普通のセックス・シーンが嫌だったからさ」フィンチャーはテレ臭そうに説明する。「俺にとっていちばん撮りづらいのが『トップ・ガン』みたいな甘ったるいラブシーンなんだ」 「セックスの後、マーラは「小学校以来、最高のセックスだったわ」と言う。

原作では「あんたの子どもを堕ろしたい」 というセリフで、最初はその通りに撮影されたが、プロデューサーのローラ・ジスキン(女性)が「不快だから変更してくれ」とフィンチャーに頼んだ。フィンチャーは「小学校~」というギャグを思いついて撮り直した。試写でそれを観たジスキンは元のほうがまだマシだから戻してくれと言ったが間に合わなかった。
マーラは頻繁にタイラーとセックスするようになる。今夜も彼女のよがり声が家中にこだまして「ぼく」は眠れない。 しかし、5分間も続くエクスタシーってどうなってるんだ? それが知りたくて寝室を覗くとタイラーは黄色いゴム手袋をしていた。このフィスト・セックスのギャグはブラッド・ピットのアイデアだ。 「マーラとタイラーはセックスはするが会話しない。「ぼく」は2人の間を行き来して伝言を伝える。「6歳の頃もそうだった」と「ぼく」は回想する。両親のセックスを知った息子が父親を憎むようにタイラーに嫉妬する。「ぼく」は マーラに惹かれながらも行動できない。
未だ大人の男としての自信が持てないからだ。

 

通過儀礼
「石鹸を作るぞ」突然タイラーは言う。 「石鹸は脂で作るんだ」
2人は夜中の病院に忍び込んで、人間の脂肪を盗み出す。フォアグラだのキャビアだのを食べて肥えた金持ちのご婦人の腹から吸引された脂肪だ。それから作った石鹸を高級デパートに卸す。金持ち婦人たちは自分の脂肪を高い金で買い戻すことになる。
脂肪を何度も鍋で煮詰めて精製し、 苛性ソーダを加えればできあがりだ。 「ぼく」らは何でも買うばかりで、石鹸をどうやって作るのかも知らない。 「最初の石験は生贄にされた人間の灰からできたんだ。手を出せ」
言われたとおりに「ぼく」が手の甲を出すと、タイラーはたっぷり唇を濡らしてからキスをした。「何をする?」「化学火傷だ」タイラーは苛性ソーダを振りかけた。タイラーの唾と反応して「ぼく」の手が焼ける。悲鳴を上げて逃げ出そうとする「ぼく」を押さえつけてタイラーが言う。 「痛みを受け止めろ! 痛みも犠牲もなしには何も得られない。他の連中みたいに逃避するな! これはお前の人生最高の間だ。ここから旅立つんだ」
「『ファイト・クラブ』は通過儀礼(イニシエーション)についての映画だ」フィンチャーは言う。通過儀礼とは大人になるための試練だ。
昔から、男子は精通を迎えた頃、両親から引き離されて村の男衆たちから、狩りや漁、野良仕事、戦い方、男とし ての態度を教えられる。少年たちは年上の男たちに詰められ、叩かれて鍛えられる。近代社会では軍隊や企業がその役目を代行したが、次第にその機能は失われてしまった。だからファイト・クラブが必要になったのだ。
最後には試験が待っている。インディアンの部族では地獄のように暑いサウナに耐えることであり、アフリカのマサイ族ではライオン狩りであり、ニューカレドニア島ではバンジー・ジャンプだ。危険な試練で一種の臨死体験をする。「子ども」として一度死に、「大人の男」として生まれ変わる。成人式であり、卒業式だ。しかし、「ぼく」はこの年でまだ卒業できない。 「父親は神のモデルだった。では、もし父親がいなかったら?」タイラーは続ける。「神はお前を求めていない。でも、別に最悪の事態じゃない」と不敵に笑う。 「神なんか要らない! 天罰がなんだ! 贖罪がなんだ! 俺たちは神の望まざる子じゃないか? そうなるんだ!」
タイラーの手の甲にも苛性ソーダの接吻の痕があった。その日からファイト・ クラブはただの同好会ではなくなった。

 

救世主
ファイト・クラブの男たちに向かってタイラーは演説する。 「広告は自動車やファッションの趣味を押し付けてくる。俺たちはそれを買うために働く。本当は欲しくもないのに!」
広告に欲しいと思わされただけだ! 「俺たちは歴史の狭間に生まれちまった。戦争に行かされるわけでもなく、凄まじい貧困もない。俺たちの戦争は精神の戦争だ! 貧困なのは俺たちの生活だ! 俺たちはテレビによって育てられ、 いつか億万長者か映画スターかロックスターになれると信じ込まされた。でも、それは幻想だ。俺たちはその事実がわかってきた。俺は本当に本当に怒っている!」 「消費社会への鬱憤は、やはり殴り合いだけでは解決できないレベルに達していた。 「誰に断ってここを使ってるんだ!」 「ルウの酒場」のオーナー・ルウが現れた。拳銃を持った手下を連れて。2 人とも明らかにマフィアだ。しかしタイラーはヘラヘラとルウをからかい、ボロ雑巾のように殴られる。どんなに殴られても笑いを止めないタイラーに怯えてルウは退散する。 「これは原作にはないシーンだけど、タイラーがカリスマになるために必要だと思った」フィンチャーは言う。タイラーの殴打はキリストの鞭打ちを象徴している。両脇を抱えられて助け起されるタイラーは十字架のキリストだ。 この時、タイラーは救世主になった。 彼のためなら死ねる。何でもできる。そう感じる信者たちにタイラーは「宿題」を出す。使命(ミッション)だ。
タイラーにはプランがあった。目的に向かって邁進し始めた。


プロジェクト・メイヘム
「宿題」は最初、道行く人に喧嘩を売ることだったが、タイラーの指令は次第にエスカレートしていく。他人の家の衛星テレビのアンテナを破壊し、環境保護団体のメッセージ看板にイタズラ描きし、レンタルビデオ店のテープを電磁気で全部消去し、BMWショールームの屋上にエサを撒いてハトを集めて高級車をフンまみれにし、旅客機の緊急事態マニュアルを阿鼻叫喚の地獄絵図にすり替え、アップル・コンピュータのショーウィンドーを爆破する。 「ぼく」も、タイラーと一緒にフォルクスワーゲンの新生ビートルをバットで叩き壊す。「ヒッピーのアイコンだった車が堕落したからだ」ノートンは言う。 「ぼく」は会社も辞めてしまった。退職金は2年分の給料だ。うるさい上司を脅したのだ。欠陥車を揉み消してる事実を公表しますよ、と。それでもビビらなかったので、「ぼく」は自分を殴った。殴った。殴った。飛び込んできた 警備員が見たのは「もう殴らないでください」と泣きながら上司にすがる血みどろの「ぼく」だった。上司は「ぼく」の要求を呑むしかなかった。 「お前の職業はお前自身じゃない」タイラーが観客を睨む。「銀行の預金額はお前自身じゃない。どんな車に乗ろうと財布の中身が何だろうと、それはお前の価値とは関係ない。そのクソったれのカーキもだ! (当時GAPのカーキのズボンが流行していた)お前は踊らされてることに気づいてないクソなんだよ!」
タイラーは極大のクロースアップになり、画面は震え、歪み、フィルムの横のパーフォレーションまでがバレてしまう。まるでタイラーの怒りがフィルムを突き破って観客に襲い掛かるように。 2人の家の前にファイト・クラブの若者が真っ黒な軍服を着て立っていた。タイラーは「若すぎる。帰れ」と門前払いするが若者は帰らない。それは仏教における入門者選抜の方法だ。志願者が太っていたら「太りすぎだ」、痩せていたら「痩せすぎだ」と言って追い返す。それでも門の前で3日3晩飲まず食わずで立ち続けた者だけが修行することができる。 「修行だって?」。「ぼく」は驚くがすでにタイラーは家の中に2段ベットを並べて家を修業場にしていた。修行者は仏僧のように頭を削り、飾りのない真っ黒な服を着て、世俗の名前を捨て、タイラーに授けられた名前で呼ばれ、規律正しい共同生活をする。タイラーはメガホンで修行者たちに「お前らは特別な存在じゃない! 美しくもない! みんな似たり寄ったりの腐った有機物だ!」 と叫ぶ。メディアによって「あなたたちはみんなそれぞれに美しい」と甘やかされた自意識を破壊する逆洗脳だ。これも宗教団体では必ず行われること である。
テレビではビルがスマイルマークの形に放火された事件を報じている。「ぼく」は驚いて「君たちがやったのか?」 と尋ねると、修行者は答える。「プロジェクト・メイヘム( 騒乱計画)の掟その1は、何も質問しないことです」


臨生体験
市長はファイト・クラブの存在に気がついた。タイラーたちはウェイターに変装して晩餐会に出席した市長をトイレで捕まえる。睾丸に輪ゴムを巻いてナイフをあてる。「1つのキンタマはN Yタイムズ編集部に、もう1つはLA タイムズに送ってやる」。『ファイト・クラブ』は去勢恐怖に貫かれているのだ。 「ぼく」の知らないところで事態が進行している。苛立つ「ぼく」は、夜のファイトで、タイラーに可愛がられている若者「エンジェル・フェイス(ジェレッド・レト)」に八つ当たりして、美しい顔が肉塊になるまで殴った。 「批評家には暴力礼賛の映画だと批判されたけど、ちゃんと暴力の醜さも見せてるよ」フィンチャーは言う。 「苛立つ「ぼく」をタイラーは盗んだリムジンに乗せて雨のフリーウェイを走り出す。対向車線を猛スピードで。 「今、この間に死ぬなら、自分の人生はどうだったと思いたい?」 「タイラーはハンドルから手を離した。 恐怖に怯える「ぼく」にタイラーは静かに言う。 「お前は本当に哀れな男だ。せっかくお前のマンションを爆破してやったの に」まだ、死ぬのが怖いのか? 何もかも失えば自由になれるのに。 「本当の絶望を経験しろ。コントロールするな。衝動に任せてみろ」
タイラーはアクセルを踏み込む。リムジンは止まっている車に追突し、 土手から転落した。 「臨生体験だな!」タイラーは笑う。

 

ドッペルゲンガー
事故の後、「ぼく」は何日間も眠っていた。目覚めると家はプロジェクト・メイヘムの総司令部になっていた。スターバックス本社のモニュメントを破壊したメンバーが警官に撃たれて死んだ。 「それでも男だ」会のボブだ。タイラーはどこまでやる気なんだ? 「ぼく」はタイラーの机から飛行機の搭乗券を大量に発見する。「ぼく」が眠っている間にタイラーは全米の大都市を飛び回っていたのだ。何のために? 「ぼく」は同じ街に飛んでタイラーの噂を追うが、行く先々で顔に殴られた痣のある男たちから歓待される。タイラーはファイト・クラブを全国規模に拡大していたのだ。 「驚きはそれだけじゃない。手の甲に苛性ソーダのキスの痕のある男は「ぼく」を「タイラーさん」と呼んだ。 「ぼく」はマーラに電話して尋ねた。 「ぼくたち、セックスしたっけ?」 「からかってるの? あんたは二重人格 よ、タイラー!」 今、「ぼく」をなんて呼んだ?

タイラー・ダーデン、タイラー・ダーデ ンよ!」
電話を切るとタイラーがそこにいた。 「君はぼくなのか?」
「その通り。お前は人生を変えたかったが自分ではできなかった。だから俺が生まれた。俺はお前の願望どおりの姿をして、お前の理想のファックをする」 タイラーはドストエフスキーの小説、『二重人格(ドッペルゲンガー)』と同じく、 「ぼく」のもうひとつの自分だった。「ぼく」はファイト・クラブの始まりは自分で自分を殴ったのだと思い出す。そして「ぼく」は自分に勇気がないからタイラーになってマーラを愛したのだ。 「ぼく」の中でタイラーはだんだん大きくなっていった。しまいには「ぼく」を乗っ取ってしまうだろう。 「これはドンデン返しだ」「ぼく」はナレーションする。「でも、映画は続く。 観客の誰も想像もつかないほうに」


対決
「ぼく」が家に戻ると誰もいなくなっていて、風呂場には大量に脂肪を精製した跡があった。「脂肪からグリセリンができる。グリセリンに硝酸を混ぜるとニトログリセリンになる」とタイラーは言っていた。プロジェクト・メイヘムはクレジット会社の本社ビルを片っ端から 同時爆破するつもりなのだ。全米の債務の記録が消えれば国全体を揺るがせる経済的大混乱が起こるだろう。タイラーは男をダメにした消費社会を根本から滅ぼしたいのだ。
「ぼく」はマーラを無理やりバスに乗せて街から逃がすと、警察に行って「ぼくは全米規模のテロ組織のリーダーです! 逮捕してください!」と叫んだ。 ところが警察官たちもメイヘムのメンバーだった。「タイラーさんから、計画を邪魔する者の睾丸を取れと言われてるんです。それがタイラーさんでもね」 誰も頼れない! 警察署を逃げ出した「ぼく」は自分で標的になったビルに急ぐ。必死に走る「ぼく」を望遠レンズで捉えたショットはおそらく『卒業』のクライマックスを意識している。 ベンジャミンが、今まさに他の男と結婚しようとする愛するエレインを奪うために教会に向かって走るショットだ。 「ぼく」は地下駐車場に仕掛けられた時限爆弾を解除しようとし、内なる敵タイラーとの一騎討ちとなる。
タイラーはブルース・リーが開祖であるジークンドーの構えで、「あたー!」 と怪鳥音を発して襲い掛かる。タイラーはその前にもヌンチャクを練習していた。「ぼく」はブルース・リー・ファンなのだろう。タイラーは『ドラゴンへの道』でリーがチャック・ノリスの胸毛を抜いたように「ぼく」の髪の毛を抜き、『燃えよドラゴン』でリーがオハラを踏みにじったように「ぼく」を踏みつける。 「ぼく」は自分の分身に負け、ビルの最上階でロに拳銃を突っ込まれている。 冒頭の場面に戻ったわけだ。

 

卒業
タイラーは窓から、これから爆破されるクレジット会社のビル群を眺めて感慨に震える。 「俺たちはこれから金融の歴史の終わりを見るんだ」 「タイラー、止めてくれ。これはやりすぎだ」 「いつもお前は反対する。けど最後には俺に感謝するんだ」 「ちょっと待て、タイラーは存在しないんだ。本当はタイラーでなくて「ぼく」が拳銃を持ているんだ。「ぼく」がそう考えると手の中に拳銃が現れる。 「ぼく」は銃を自分の顔に向けた。 苛性ソーダの火傷も、リムジン暴走も「ぼく」は怖かった。でも、もう怖くない。長い目で見れば、すべての人間の生存率はゼロになるんだから。 「タイラー見てくれ、ぼくは目をつむらないぞ」そう言って「ぼく」は自分を撃った。弾丸は「ぼく」の類とタイラーの頭を吹き飛ばした。バンジー・ジャンプの成人式。恐怖を超えた時、「ぼく」は心の中の子どもが作った想像上の「父」、タイラーを倒した。
メイヘムの連中がマーラを連れて来た。「ぼく」はもうマーラを正面から愛することができる。その時、予定通り周囲のビルが爆発し、崩れ落ちる。
原作では爆破は阻止され、「ぼく」は 『ライ麦畑でつかまえて』の主人公のように精神病院に入る。しかしフィンチャーは「どうしてビルを壊しちゃいけないんだ?」と思った。「クレジット会社なんかやっちまえ」と。ビルの警備員は全員メイヘムのメンバーで、既に退避したから誰も死なないとタイラーも言っている。このラストのせいで批評家はフィンチャーを「反資本主義」と批判した。「反資本主義で全然かまわないけどさ」フィンチャーは言う。「これはメタファーだぜ」 ビルは次々に崩壊するが「ぼく」は 微笑んでマーラの手を握る。「ぼく」もマーラももう死に魅了されることはないだろう。2人が手をつないで並ぶ姿で終わるエンディングには、『卒業』でベンジャミンが結婚式場から奪ったエレインが並んでバスに座るラストショットに通じるものがある。これは2人の結婚で、砕け散るビルは祝福の花火だ。

 

タイラーはそこにいる
ファイト・クラブ』は99年10月にアメリカ公開されたが、暴力やテロを礼賛する映画としてマスコミの集中攻撃を浴びた。その数カ月前に起こったコロンバイン高乱射事件のせいでもある。 「ぼく」が「カービン銃でこのオフィスの連中を皆殺しにする」と言って上司を脅かす場面もあるから無理もない。 「これは社会的に無責任な映画です」ハリウッド・リポーター誌のアニタ・M・ブ ッシュは怒りをぶちまけた。アメリカで最も影響力のある批評家ロジャー・エバートは「マッチョ・ポルノ」と叩いた。イギリスでもロンドン・イヴニング・スタンダード紙のアレクサンダー・ウォーカー が「これは容認しい個人と社会の良識への攻撃だ。反資本主義で反社会的で、もちろん神への冒涜だ」と糾弾した。
数少ない「ファイト・クラブ」擁護者の1人に作家のブレット・イーストン・ エリスがいる。「この社会は誰でも有名になれる、美しくなれる、豊かになれると絶えず宣伝する。そんなウソにする怒りが『ファイト・クラブ』なのだ」
ラニュークはB・E・エリスの『アメリカン・サイコ』に影響を受けたことを認めている。『アメリカン・サイコ』は 80年代バブル期の証券マンが高級ブランドによるライフスタイルを追い続けるが、心の空虚さは埋まらず、猟奇殺人に走っていく小説だ。 『ファイト・クラブ』は製作費6700万ドルに対して国内の興行収入3700万ドルという惨敗に終わった。 ところが、全米、いや世界の各地にいつの間にか本物のファイト・クラブができていった。シリコンヴァレーのコンピュータ技術者が、UCLAの学生が、韓国のサラリーマンが、月曜日になると目の周りに痣を作って現れた。 「フィンチャーはこれをただの映画にしたくなかった。だからタイラーの映像を1コマづつ5箇所に隠した。タイラーのイタズラのように。そしてエンディングにはペニスの写真を忍ばせた。 それは「この映画を上映している映写室にタイラーがいるぞ!」ということだ。 タイラーはいる。彼は消費社会に去勢されたすべての「ぼく」のイド(潜在意識)に潜む怪物だ。フィンチャーは「この映画はフラストレーションについての映画だ」と言う。社会がイニシエーションを復活させない限り、適応に苦しむ者たちの心の中にタイラーは生まれ続ける。実際にそれは日本ではオウム真理教として爆発した。 『ファイト・クラブ』のテーマは文明の破壊ではなく、フィンチャーを最初に感動させた例の場面にこそある。人間、どうせ死ぬ。今、この瞬間に死ぬかもしれない。だからぐずぐずしないで自分のやりたいことをやれ。服もモノも忘れろ。 知識なんか根性なしでも持てる。行動しろ。メディアに与えられた夢や欲望ではなくて本当に自分がなりたいものを目指せ。そのために戦え。俺は監視している。 死ぬ気でやらないとブッ殺すぞ!

 

 

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こちらの文章は映画秘宝2007年6月号からの引用です。町山さんは『ファイトクラブ』の評論を単行本化しておらず、もし映画秘宝に書いた解説をネットにあげてくれる人がいればそうして欲しい、と映画ムダ話でおっしゃっていたので書き起こししました。